長崎忌

69年前、共に16歳だった父母は、また、その親姉妹たちは、どんな思いでこの夜を過ごしていたのだろう。姉の一人はもう亡くなっていたのだろうか。その夜が明けることを知っていたのだろうか。その時のことを私は聞かされていない。

「神様は綺麗か娘から順番に連れて行きなさるとねぇ」と、誰かが言ったとか。残った母たちは綺麗でなくて良かったのか、悪かったのか、その後生きている間中、その悪夢から逃げられなかったのは間違いない。

生き地獄にもいつもどおりお陽様が出て、6日目の朝、終戦を迎えた時は歓喜したという。終わった、これで終わった、もう空襲も原爆もない、と。上陸してきた米兵に蹂躙されるのを恐れて山に逃げたりもしたがが、そのような事はなく、いろいろ良くしてもらったという。



昭和33年、爆心地付近の浦上天主堂が建て替えられることになり廃墟が取り壊されてしまった。壁面の一部と、一緒に被曝した聖母マリアや聖ヨハネ使徒たちは残されたが、もう、その時の姿のままではない。




なぜ残せなかったのか。西洋人にとっては広島の原爆ドームより説得力の強い遺跡になったはずだ。長崎の大失態ではないか。良くしてくれたキリスト教の国アメリカへの気遣いだったのか、または大きな圧力が有ったのか。


今年の、長崎市長の平和宣言はひときわ素晴らしかった。この先もずっとずっと、大きな力に負けない強い長崎市長を選出して欲しい。



生き延びて、巡りあって、私を産んで育ててくれた父母に今年もまた感謝する。