天寿
ギター小僧
「おれ、あと十年は生きられないと思うから、退職して遊んでもいいか?」と父が言いだしたのは50才の時でした。わたしはその時24才で、50才という年齢がいかほどのものなのか想像がつかなくて、まぁ、あと5年で定年なんだからお爺さんの一歩手前位なんだろうと思い、いいよって答えたのでした。
生まれたときから虚弱で、三歳で母親に死なれ、継母に愛されたものの、アレルギー→小児喘息→肋膜→<被爆>→肺結核→癌→狭心症という病気人生だった父。考えてみればよくぞ50才まで働けました、とも思います。
写真で残っている、ヴァイオリンを抱いたうるうるおめめの5-6歳くらいの父は、もう、それは甘ったれの極地の王子様のような顔でした。高度成長期のハラホレすーだら無責任サラリーマンとはいえ、やっぱりよく働いたのだろうなと思います。勤め先が爆破されたこともあったわ、そういえば。「仕方がない、ミサイル造って売ってるからなぁ」って白々と言ってました。
退職後、ギター小僧に戻って、なくしたような青春をするのだろうと生暖かーい目で見ていましたが、結局、もう音楽をすることはなく、麻雀大学生みたいな世界に戻り、20年、遊び呆けて亡くなりました。
父には一度も叱られたことがなかったです。怒った顔も見たことがなかった。一度だけ二重まぶたの大きな瞳から大粒の涙がこぼれ落ちるのを見たことがあります。いわゆる男らしい男ではないタイプでしたが、それでも大人の男、しかも自分の父親が涙を流しているのを見たことはずっと忘れられないと思います。
天寿が、父が思っていた長さプラス10年だったことが、父の幸せだったらいいなって、嗚呼、5年目かな、今頃、思います。一緒に観た『2001年宇宙の旅』まで生きていてくれたらよかったのにと、あの時は思ったんですけどね。
お父さん あなたをHALと呼んだ日々幸せでしたまた会いましょう
京