復興と再建

kyopin2011-04-18

猿も猫も眠ってるらしい。

戦争中に殺された東山動物園の生き物たちも、ちゃんと葬られたのだろうか。人間を恨んでいないだろうか。無になってしまうのならば、それはそれでいいけれど。


六十六年前、日本の都市は焼き尽くされていました。ここ名古屋も、シンボルである名古屋城までもが焼け落ち、市内は焼け野原と化しました。

戦後、田渕寿郎という土木技師の提唱により、市街地に、幅100mの道路を十文字に走らせることによって四分割することと、市内に点在していたお墓を立ち退かせ一箇所に集めることが再建の二本柱になりました。関連記事「終わりの始まり」2008/8/9

100m道路の計画地は焼け野原(すでに終戦前に建築禁止令が出されていたそうですが)ですから立退きも何もないも同然ですけど、木造の家屋敷とは違って、墓石は頑として焼け残っているわけです。

先祖の墓が生活圏内に有るのが当たり前だった当時の人々は、どんな思いで墓地の移動を受け入れたのでしょう。ただえさえ、名古屋人は保守的なのに。焼け野原に無秩序に建てられたバラックでのギリギリの生活で、心の拠り所である御先祖様の移動は、多くの人にとって、受け入れがたいものだったと思います。


さてここが、私が毎日のようにお散歩している平和公園です。



中央左の木の後ろに建つお墓型のビルは非常時用の給水塔です。標高140m。


名古屋のお墓はわりに質素です。その質素な庶民のお墓群の一角に、古そうな変わった形のお墓が車座になっています。お背中側からちょいと失礼して撮らせていただきました。



尾張徳川家のお墓です。昭和29年に菩提寺建中寺さんからお引越しなさったそうです。左のほうの扁平な楕円の、のっぽなのが七代藩主宗春公のお墓だそうです。

特に見晴らしのいい一等地でもなく、囲いもなく、特別扱いもされず、普通に庶民の墓の中におわすのがとても宗春公らしいように思います。

徳川さんの宗春さんまで引っ越されるならと、城下の人々も納得したのかも知れません。

名古屋の外れの東山の、さらに東の、狸や狢の住処のような僻地のお墓へ、市の中心から引かれた路面電車に乗っての墓参りは、当時の人々にとっては、ちょっとした小旅行だったことでしょう。足が遠のかないよう、盆暮れお彼岸、ご命日以外にも行きたくなるよう、広場を設け、梅や桜を植えたと聞いています。

昭和40年代ごろまでは、だだっ広い道路に分断された碁盤の目の名古屋は、白い街(←注:クリックすると石原裕次郎の歌が流れます)と呼ばれるほど殺風景な味気ない町並みでしたけど、いつしか時が流れ、緑生い茂る美しい街に育ちました。

きっときっと、被災地の復興再建も上手く運びますように。