鷲津山の怪

kyopin2004-06-07

なかなか誰も助けてくれないもんなんだよね、世の中。
(見にくいですね、クマかな、犬かな)


10才の時、そんなこんなや、親から貰った体質や、車の排気ガスやらで小児喘息を患ってしまい、転地療法することになりました。引っ越した先は、まだ名古屋市に統合されたばかりの知多半島の付け根の町で、畑や田んぼが残る田舎でした。


戦国時代、織田家の砦があって鎧武者の幽霊が出るという噂の山のてっぺんで過ごしているうちに、気管支も良くなり、体力も付いて元気になりました。先生にも恵まれたし。そんな明るく元気で、素直なよい子(ほんとだってば)のわたしが、ある日の下校時、お山への道を登っていますと、小さな女の子がその坂道を降りてきます。もう暗くなる時間で、道の片側は小さな畑、もう片側は防空壕の跡が残る絶壁、どちらもその向こうは雑木林で、どこからも誰からもわたしたちのことは見えない位置です。


ふと、よぎったのは(今、わたしがこの子の首を絞めて防空壕か雑木林に隠してしまえば誰も気がつかないんだろうなぁ)という恐ろしい思いつきでした。小学校の3-4年に不登校になっていたわたしは、それでも担任に(死ね)と思ったことも(殺してやる)と思ったこともなかったのに、健全な精神である12才のわたしは、そんな恐ろしいことを思いついたんです。


その子が憎いと言うことは勿論なくて、わたしより小さく、弱く、ただ可愛かっただけでした。「どこいくの?もう暗くなるよ、お母さんは知ってるの?」って訊いたら、「うん、おじいちゃんちへ行くの」って答えたように記憶します。ばいばーいって手を振ってすれ違って、とうとうその子がどこの子なのかも知らないまま、その後、見かけることはありませんでした。わたしもたぶん、誰かを殺したいと考えたことは、それ以来なかったと思います。すれ違って少し行ったところで蛍が光っていました。川などはなくて、後にも先にもその道沿いで蛍を見かけたことがありませんでした。忘れられないです。


ほんとうに自殺してしまう子や、人を殺してしまう子も、その程度の「ふと」の場合もあるのかもしれません。魔がさす、というあれ。時間だか空間だか、心の深層だかがぎゅるるとねじ曲がる瞬間。大人でも起こるとおもいますけど、思春期の不安定な躰には起こりやすいことなのかも知れないです。


昔と環境が変わってしまって、その抑止力がなくなってきている今、大人として何をすればいいのだろう、と考えても、解らないです。わたしの母が先生に抗議したこと、その頃の親たちが平気で子供の先生を侮辱していたこと、働く女性が能面のようにでもならなければ生きられなかったこと、子供であるわたしが心の中で先生に、イ~~~んだってしていたこと、そんなことすべてが、もう狂い初めていた証拠なんだろうと思います。