黄昏のアリア

kyopin2007-01-24


ミシェル・シュネデール著『シューマン 黄昏のアリア』を読み返していました。同じ著者による『グレングールド 孤独のアリア』とともに名著です。ことにシューマンのほうはシューマンの音楽そのもののような苦しい美しさに溢れています。冒頭、白いハンカチを握りしめ、冬のラインに身を投げるシーンがあまりにも苦しくて、頁を捲るのがなかなかでした。


うつろい、がぎろい、ゆうまぐれ、まがつとき、誰そ彼、彼そ誰、白と黒、光と陰が混ざり入れ替わる時間、私が私から抜ける時、私の中に別のモノが入ってくる時、私が私に戻ってくる時、黄昏。シューマンの音楽を言葉にするなら、これ以外はないと思います。


あまり聴かないし、弾くのも苦手ですが、しばらくシューマンモードです。『黄昏のアリア』の受け売りではありませんが、シューマンの音楽って悲しみや悩みを越えた、苦しみや痛みだと思ってます。聴くとやたら苦しくなって、出口のない鬱世界を右往左往させられます。シューマンの傷口へ入り込んでいくような悪寒を伴うサディスティックな快感もあって。


実際、不協和音を最後に持ってきて解決させないとか、下降する音型が多用されていて、吹っ切れないまま消えてなくなるとか、忸怩たる感情が残る曲が多いようです。大事な音列を(ピアノで)音が出ないように押さえて、他の音を鳴らした際に倍音として響かせるなんていうのはまだしも、弾かせない指示があったりして、、、楽譜に音を書いといて弾かせないんですよ、、、弾きたいぞ、聴きたいぞ。なんだそれ。うぐうぐ。


で、うぐうぐするために聴くんですよね。聴いた後味の悪さがもの凄く精神を元に戻す活力に変わってくるような気がします。これを癒しというんだか、なんなんだか。


躁鬱病で統合失調で二重人格だったといわれるシューマンですが、たまに現れる躁状態のような音楽は、宇宙へ繋がる青空、天国のようです。躁で亡くなった舅も、その空を観たのかしら。頭の中がスカーっと晴れ上がってタイムスリップ(老化でぼんやりしてきていた脳味噌が、若返った)したって言ってました。それが悲しい。抜けた青が悲しい。シューマンの明るい音楽は虚しくて悲しい。躁は悲しいものかもしれない。