トロイメライ

kyopin2007-01-26

こどもだって


8歳くらいの頃だったか、誕生日にオルゴールをもらいました。捻子をまわして、箱の蓋を開けるとドラム式?のが鳴る、よくあるタイプのです。箱形のオルゴールをねだってはいて、曲は子供らしくオーソドックスに「エリーゼのために」やら「小犬のワルツ」を希望していたとおもいますが、蓋を開ければ「トロイメライ」でした。じみぃ。。


当然のように小さいきょしゃーんは「トロイメライ」がドイツ語の「夢」であることは知りませんでした。それでもその曲は紛れもなく「夢」で、「幻」で、捻子が緩んで究極のリタルダンドで尻切れトンボに音が消えるときは、あちらの世界へ帰って行って、もう二度と父母のいるこちら側へは戻ってこられないような気分を味わったものです。


ミシェル・シュネデールのシューマン論は、いちいち頷けるし、ハっとさせられる事ばかりですが、ただひとつだけ、この「トロイメライ」に関することだけ首を傾げてしまいます。(引用:ミシェル・シュネーデル著『シューマン 黄昏のアリア』p.138より)

<子供のためのアルバム>とは違って、<子供の情景>は、どの曲も子供には弾けないし、また子供には聴くこともできない。<子供の情景>の苦しげな恐怖のヴェールと<子供のためのアルバム>各曲の描写の平凡さ(例外はあるが)を比べてみるとよい。違いは視線にある。後者は子供向けだが、前者はそうではない。

と、ここまではよく言われていることですし、一部異論はありますが、わたしもそう思いますけど、これにつづく一節。

子供たちの目にはいかなる情景も浮かばないだろうし、たとえば「トロイメライ」に悲劇的な破綻を聞き取ることなどありえない。

これが同意できません。ちゃんと感じていましたよ。「悲劇的」という言葉も「破綻」という言葉も知りませんでしたけど。子供を甘くみちゃいけない。シュネデールはその後に、

子供時代に興味を持つ人間とは、とっくの昔に子供でなくなってしまったが、子供時代を否認しようとはしない人間、そして子供時代のひそやかな声、つまりどこかでひび割れたような響きで、何ともおしゃべりな声(<ノヴェレッテン>)、空想物語の遠い国の魅惑に惹かれる声に自分の声を合わせることのできる人間だけである。

と、綴っているように、シューマンは大人の世界という遠くから子供を観ているだけの、子供の感覚世界を忘れ果ててしまった大人ではなかったと思いますし、いつ何時でも子供に戻れる人だったと思います。そして、子供に弾かせるためには作曲しなかったかも知れないけれど、子供にも聴いて欲しかったのじゃないかしら。


子供のわたしは、「トロイメライ」という音韻はどこかエメラルドのそれに似ていると思っていました。母が持っていた、透明度が低くてカットもされていないエメラルドの帯留にイメージを重ねて聴いていたものでした。くすんだ緑の靄に隠されたあちらの世界へ引きずり込まれたら、今の幸せと引き替えに何が観られるんだろうって、震えるような誘惑を感じながら、毎夜、眠りについていました。朝には目覚めないかもしれない甘美な恐怖も抱かえて。


その後「ニライカナイ」の伝承を知りました。そして、そのまたその後、夢野久作ドグラマグラ」を知りました。なんてトロイメライに、シューマンの世界に似てるのかしらって、その都度、子供時代のトロイメライ感覚を思い出すのでした。