名作の副作用は無限大

kyopin2007-05-30

コピーは眠る


わたしは平原綾香の「ジュピター」が好きになれません。すっぱい口してひーひーと、浅い胸呼吸の息継ぎが耐えられないからです。ちっとも「ジュピター」じゃないと思うからです。


グスタフホルスト組曲『惑星』を、楽器編成の変更も編曲も抜粋もしてはならぬと遺言し、遺族がそれを監視し続けた話は有名です。芸術家にはそんな頑固さも必要かと思います。


平原綾香の「ジュピター」を聴いたとき、ありゃりゃぁ・・天国のホルスト先生は苦い顔をなさってるのだろうなぁと、まぁ、勝手にそう思ったものです。


でも仮にそうだとしても、ホルスト先生は許すべきと思うのです。それは死後50年が過ぎて著作権が切れたからではなく、凄い曲を書いて発表して、世界中の多くの多くの人々を感動させ、創作意欲に火をつけてしまった、いわゆるひとつのある意味バチだと思うからです。


あの素晴らしい音楽は、聴いてしまった人々の創作意欲を刺激し続け、著作権切れを待つことなく、エマーソンもクリムゾンも冨田勲もオリジナリティあふれる編曲をし、演奏をしました。また、編曲ではないですが、ジョンウィリアムスが「火星」のイメージから、沢山のSF映画の音楽を創りました。


それから、映画やドラマやニュース番組のバックなどで、まるっとパクリだなぁと思える「火星」のフレーズを聴くことも多いです。著作権が切れ、晴れてどんな風にでも変容可能になったわけで、あまりに安易でへなちょこで、ムっとしてしまうことがありますが、これは哀しいかな合法であり、名作の副作用なのです。


著作者の権利は守られるべきですし、自作に対する思いは尊重すべきです。でも、でも、発表(リリース)してしまった以上、その作品世界を観、聴き、読んだ人々の脳に留まり続けることを、たとえ作者であっても 禁じることはできません。


作品のチカラが大きければ大きいほど、長く長く脳内に留まり、海馬が抱かえている他の記憶たちと融合して、時間に窯変され、新しい作品世界となって脳から湧き出てくるのは名作の背負う業です。それが嫌なら作者がその脳内に留めておくべきです。リリースしてはならない。


ドラえもんだって、多くの子供達にあれだけ多大な影響を与え続けてきたのですから、最終話を描いちゃう人が出てきてもしょうがないと思います。漫画好きを育て、漫画家志望を育て、そこまでの気持ちにしてしまったのは、偉大な作品につきまとうバチなのだから、甘んじてカブる寛容さが欲しいです。


嗚呼、商品ですからね、儲けの元ですからね、商売ですからね。なんて世知辛いこと。「田舎へ帰ります。もう描きません。」と、ドラえもんの大ファンの元少年に言わせてしまうオトナの事情のなんて情けないこと。小学館の温情も感じないではありませんが、ケジメをつけないわけにはいかない経済社会のなんと貧しいこと。


著作権を侵害をした男性の脳味噌からリリースされたドラえもんもまた、多くの人たちの脳に留まり、似たようなカタチであれ、全く違うカタチであれ、いくつもの脳からリリースされる時が来ることと思います。北斎の富士がドビュッシー交響詩になり、それがホルストの惑星になり、後世の世界中の人たちの脳内で熟成され、いくつもの個性溢れる惑星ができてゆくように。


頑固なホルストも、アマチュアオーケストラには編成の縮小を認めていたそうです。「ドラえもん最終話」の著作権侵害者が、真っ当なアマチュアで、一万三千部×500円を稼いでいなかったら、小学館は目を瞑ってやったのかも知れません。そう願いたいです。


著作権侵害非親告罪化が検討され、東京地裁では高部真規子裁判長により「オンラインストレージを管理する被告人は有罪である」という判決がでたそうです。恐ろしいこと。どこの誰が巨富を得るために文化芸術を、その本当の著作権者を食い物にしているのでしょうや。