終わりの始まり

kyopin2008-08-09







そして今、名古屋の平和公園の そのすぐ脇に住まっています  /京


広島の原爆忌が来て、赤塚不二夫さんが亡くなって、タモリさんの弔辞に泣いて、北京オリンピックが始まりました。チャンイーモウ監督の開会式を楽しみにしていました。全部は見られませんでしたが、黙って見せろい、NHK! っていうのが一番の感想だったりして。


アリスの人、いらない。「中国とフランスは仲がいいんですね」みたいなことを言ってました。ばかぢゃなかろうか。西のアリス、東のGAROって言われたものですが、一GAROファンとしましては、一緒に並べられて、とってもいやんだった時代を思い出しました。タモさんに同意、きらいじゃ、はんどいんはんど、ウソクサイ。


で、開会式はやっぱり予想通り、さすが共産国ならではの人、人、人。チャンイーモウならではの色、色、色。特に素晴らしかったのが、バカボンのぐるぐる模様の聖火台。日本の天才の昇天への最大の追悼かと思いました。さすが中国エライ、四柱推命かなんかで未来予知してたのかしらと思うくらい。


そうこうしているうちに夜が明けて、今日は故郷長崎の原爆忌。TVに何度も平和祈念像が映っているのを見たら、上の写真が頭にチラついて、アルバムをひっぱりだして、スキャンしました。


この写真を撮った頃は、わたしはまだ原爆とか戦争とか、そんなことは何も知らない2歳でした。平和公園は父の実家から歩いて行ける距離で、この年は父が新しいカメラを買ったばかりで、その撮影会に訪れたのだと思います。平和公園はまだ出来立てだったのかしら、今のように夾竹桃も繁ってなくて殺風景な感じです。


原爆に焼かれ、丸裸になった広島と長崎は、もうずっと草木も生えないだろうと言われたそうですが、どちらの街も、夾竹桃が真っ先に復活したのだと聞きます。


この写真の夏から5年後、父の転勤で名古屋にやってきましたら、街の真ん中に幅100mのすんごい道路がありました。やはり焼け野原だった名古屋に、これからは自動車の時代がやってくるはずだと、計画建設されたものだそうです。


発案者は、バカのタワケのと罵られたそうですが、偉かったです、説得に説得を重ね、とうとう実行してしまいます。中央分離には緑地帯が設けられ、とんでもなく細長い公園になっています。その緑地に植えられたのが長崎から贈られた夾竹桃でした。大火に遭っても、緑地が類焼を防いでくれるようにと。


焼け野原の街に立って、100m道路の他、地下鉄や、郊外に市内のお墓をぜーんぶ集めた平和公園など、何十年もの未来を見ていた人の名は田渕寿郎。今ではその広い道路でも足りないくらいの名古屋です。この人も「これでいいのだ」という言葉が似合う偉人です。



 平和だね赤くておっきいママの口  京