さよなら大名古屋ビルヂング


三菱のビルなのにHITACHIのモニター……そういえば我が家の最初のTVも日立だったっけ…


大名古屋ビルヂングが高層ビルに建て替えられると初めて耳にした時には、ああ、とうとうその日がやって来たのねぇ、、くらいで、さほどのこともありませんでした。しかし、いざその日が近づいてきたら、さよならをしに、最後にもう一度その胎内に入りに行かずにはいられなくなりまして、先週、行って来ました。

私が長崎から名古屋にやって来たのは父の転勤のためでした。その転勤先はこのビル。まず最初に正面部分が竣工した1962年に父が単身赴任、その半年後、私は名古屋駅に降り立ち、その立派なビルを見上げたのでした。

寝台特急さくら号は早朝に名古屋に着きましたから、まずはビルの裏面の香取旅館に入り朝食を取りました。「あらぁ、名古屋の朝ご飯にはお汁粉が付くとねぇ!」って母が驚いて覗きこんだお椀の中は赤だしであり、恐ろしく塩っぱかったのが忘れられません。…と、いうわけで今年、大名古屋ビルヂングの年齢と私の名古屋歴は同じ50年です。

青い窓が爽やかな威風堂々の姿と、大理石の内装の贅沢さがその後の時代の象徴でした。初めて味噌煮込みうどんを食べたのもここの山本屋さん、なんだかハイカラな食品はここの明治屋。レコードや楽譜を買うのは玉音堂、カラー写真の現像はダイヤモンドカメラ、信忠閣の酢豚や玉蜀黍スープ、立田埜の白玉の美味しかったこと。

オープンしたてのビヤガーデンではエレキバンドをバックにミニスカートのゴーゴーガールが踊っていました。キッチンワイキキのハンバーグとスナイスという名のアイスも美味しかったぁ(いや、それはマイアミだったか?)。割烹竜むらの上品なうな重。喫茶ツルの苦い珈琲の味も、何十年ぶりに思い出します。60年代、このビルの地下と1Fは私のテリトリの相当な部分を占めていました。

この廊下の突き当りが、ある時代までは名古屋で一番豪華で清潔な公衆トイレでした。

ある大雪のクリスマス、充分すぎるほど大人になってた私は、この近くのホテルでピアノ弾きをしていました。休憩室の窓から外を眺めると、随分下に大名古屋ビルが見えていました。老いていく父を見下ろすようでなんか切なかったです。あんなに豪華で立派だった大名古屋ビルがこぢんまりとしていて、みるみるうちに雪に掻き消されていって。

あの大理石のぐるぐる階段やエレベータホールで懸命にアンモナイトを探していた頃に戻りたいなぁ。エレべータのドアが開くと、スーダラ社員の父がBG(ビジネスガール、娼婦の意味であることが発覚後、OLと呼称されるようになったらしい)と呼ばれていたミニスカートのお姉さんたちを引き連れて鼻の下を伸ばしていた頃に。そしてそれを見て不機嫌になる母もまたそれなりに若く綺麗だった頃に。





この階段を使えば戻れそうな気がしたけど、やっぱり無理でした。でも、見に行って良かったです。さよなら大名古屋ビルヂング